6世紀半ば、欽明天皇の御代に百済から仏教の経典が伝わった。
教典は漢字で書かれていたわけで、大野晋はそれが日本に漢字が伝わった最初だとしている。
それから日本人は漢字を学び、漢文をマスターして、やがて仮名を思いついたという展開だった、と。
しかし日本人は紀元1世紀には中国から例の金印をもらっている。
判子の文字は「漢委奴国王」。立派な漢字だ。
日本人はそのとき眩いばかりの文字文化を知って驚き、その記録性、利便性に圧倒されたはずだが、その後、それこそ仏教伝来まで日本人は漢字に積極的に関わらなかった。
これは日本人の性癖から言うと異様なことだ。(略)
その日本人がなぜ漢字に飛びつかなかったか。西尾幹二は『国民の歴史』の中で、日本人が漢字に戸惑い拒絶した理由をいくつか指摘している。
例えば漢字の世界には品詞も時制も格変化もない。要するに超原始的で、食うとか寝るは表現できても、情感表記には限度がある。
台湾大使夫人の盧千恵さんの『私のなかのよき日本』には英詩「いい匂いのする風』を漢文で表現しようとして、どうしても訳せなかったという件(くだり)がある。
莫邦富の著作には日本人の喧嘩言葉「出て行って頂戴」とか「もう帰ってください」が漢語に訳せない、だって「ください」を訳せば「請」になる。英語なら「please」だ。そんな喧嘩言葉は漢語にはありえない、と。
評論家の石平も日本語の「優しい」に当たる中国語がない、と中国語の不自由さを書いている。
倭の奴の国王も漢字のそんないい加減さを見抜いて、こんなのを入れたらとんだことになると思ったのだろう。
しかし文字の利便さは分かる。で、5世紀間、思案を重ねて仮名を思い付いた。これなら日本語を壊さないで表記できる。
つまり仏教の経典で漢字を知り、それを学んでやがて仮名を発明したのではなく、漢字の存在は知りつつも仮名の発明まで待って漢字を導入した、順番が逆だったという見方だ。(略)
そのまま漢字を入れたベトナムは自国語を半分くらい失った。おまけに原始的な漢字では意が尽くせないから、この国では一字が20画、30画といった複雑な漢字チュノムを生み出し、ますます識字率を下げた。
朝鮮は漢字導入で自国語のほとんどを失った。感情表現も漢字の制限を受け、結局、「哀号(あいごう)」に泣くか叫ぶか地面を叩くかを加えて表現するようになった。みんな漢字の毒に中(あた)った。
ただ日本は仮名という毒消しを用いたから、漢字の利便さをそのままに豊かな情感の表現も残せた。
しかも仮名を2種類創ったところがすごい。
一つは漢字の一部、たとえば「伊」の偏だけとって「イ」を作った。
もう一種は「案」の草書体から「あ」を作った。
おかげで、米国からテレビがこようと、ドイツからルンペンがこようとみな片仮名で処理できる。漢字の国から「老頭児」がきてもロートルで済んだ。
その中国では四千年変わらずにテレビは電影、インスタントラーメンは方便麺と馬鹿の一つ覚えの漢字で書いてきた。
しかし文化は高きから低きに流れる。いま中国では簡体字として日本の二種類の仮名書きをそっくり真似して表音文字を生み出そうとしている。
日本に遅れること千四百年、中国にもやっと近代的な文字文化が根付こうとしている。(『オバマ大統領は黒人か』新潮社、髙山正之、89ページ)