2011-10-25

茂木健一郎連続ツイート:里山の景観が、日本人にとってのふるさとの心象風景になること

しゅりんくっ! ぷれりいーどっぐくん、おはよう!
posted at 07:27:09
「連続ツイート」をお届けします。文章は、その場で組み立てながら即興的に書いています! 今日は、日本のことを書こうと思います。
posted at 08:02:26
さふ(1)宮崎県の高千穂の、高天原や、天岩戸は、実見する前から人にいろいろ話を聞いていて、わくわくしていた。天岩戸は、近づくことはできなくて、対岸から見るしかない、とも聞いていた。そのあたりが、とても神秘的に思えた。
posted at 08:04:11
さふ(2)私の心の中では、なんとはなしに、峻厳な岩山があり、そこに天上から光が差しているような、そんなイメージが出来上がっていた。「高天原」というその名前が、「降臨」の印象として、そんな光景を心の中につくっていたのだろう。
posted at 08:05:15
さふ(3)数年前、高千穂を訪れた。遠くて、ひたすら車に乗った。ようやく到着したとき、私は、ちょっと拍子抜けした気がした。ここが、高天原や天岩戸がある場所なのか。そのあとで、じんわりと感動が込み上げてきた。日本人のふるさとは、やはりこういう場所でなくてはならない。
posted at 08:06:30
さふ(4)ごく普通の、里山の光景が広がっていたのである。「高天原遙拝所」も、田舎にいけばどこにでもあるような、ごく普通の神社への道を歩いてついた。慣れ親しんだ、日本の雑木林の中で。そこから遙拝するにしても、峻厳な岩山としての「高天原」などどこにもない。
posted at 08:07:53
さふ(5)天岩戸は、素晴らしかった。対岸から眺める。天照大神がお隠れになったという岩戸。美しかった。写真も、スケッチもできないから、心に留めるしかない。その一回性がかえって、体験の質と強度を高めていた。
posted at 08:09:18
さふ(6)天岩戸神社で、若い宮司さんがふともらした一言が、私の「神道」に対する考え方や、そもそも日本の「神様」とは何なのかということについての概念を根底から変えることになるのだが、そのことについては別の機会に改めて論じたいと思う。
posted at 08:10:32
さふ(7)ある外国の日本文学研究者が、大和の「天香具山」にあこがれて、実際に見たら、それが小さいのでがっかりした、という話を聞いたことがある。その気持ちも分かるけれども、日本人のふるさとは、その小さい、ささやかな、しかし豊かな里山の中にあるのだ。
posted at 08:12:08
さふ(8)「天孫降臨」といっても、砂漠の宗教が構想するどこか乾いた、虚無からの創造ではない。私たちの慣れ親しんだ日本の風土は、もっと小さくて、かわいらしくて、生命の豊かな営みにあふれている。それが、日本の「神学」であり、「世界観」。天香具山が、小さくったって、それでいいのだ。
posted at 08:14:10
さふ(9)二十一世紀になり、人間と自然の調和が求められるようになった時に、日本の風土が育んできた、人の営みと自然のいのちが響き合う景観は、きっと一つのモデルケースになる。私たちは、体験から肌で 知っている。大和や高千穂の「里山」をめぐる神話が、それを示している。
posted at 08:15:44
以上、「里山の景観が、日本人にとってのふるさとの心象風景になること」についての連続ツイートでした。
posted at 08:16:22

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