2013-06-02

今こそ挫折の歴史に学べ

日本人は明治時代から始めていた


今こそ挫折の歴史に学べ

私が反対する理由は、導入したほうがいいという流れの裏に、
いろいろな思惑や間違った前提が渦巻いているからです。子どものための教育という
一番の目的がないがしろにされている。このままでは、混乱をきたすのは目に見えています

斎藤兆史/東京大学大学院総合文化研究科助教授

 まだ決定したわけではない


―今年の三月、文部科学省・中央教育審議会(以下、中教審)の外国語専門部会が、「全国の公立小学校における英語の必修化」を提言しました。同部会の提言によると「コミュニケーション能力の育成を目的として、小学校五、六年生に週一時間程度の英語教育を受けさせる」とのことです。必修化には、かねてから反対意見が強いにもかかわらず、こうした提言を行ったことについて、どのようにお考えになりますか。

斎藤 まず、あらためて確認しておきたいのは、この提言は中教審が報告したものではなくて、中教審の下にいくつか設けられた部会のひとつがまとめて報告したものであるということです。ですから、中教審の提言ではないのです。そうすると、今後さまざまな部会の意見を総合的に判断して、中教審が別の方向性を示すことも考えられます。この点を誤解されている方もいらっしゃるようです。
 中教審の外国語専門部会は、かなり偏った意見を持っているところなので、そういう提言が出てくるだろうことは、当然予想されていたことです。意外でもなんでもありません。外国論専門部会は、ほとんどが「必修化推進派」で構成されているのですから。構成委員の多くは、早期英語教育やコミュニケーション中心主義の言語教育に携わってきた人たちです。なかには、民間の小学校英語指導者認定団体の認定委員を務めている人もいます。

―必修化される英語教育は、「成績をつけない道徳のような形で位置付けることも検討」とされ、教科化はしない考えもあるようです。

斎藤 私は、外国語専門部会の議論のなかで、いずれ教科化の話が出てくるのではないかと恐れていました。しかし、今回の提言を見ますと、小学校五、六年生の必修化というのは、以前に比べて推進派の方々の姿勢が慎重になってきていると感じました。今後中教審における議論しだいでは、必修化の話はなくなる可能性もあります。
 ましてや現在は、子どもたちの国語力の低下が深刻で、論理的思考能力が弱くなっているという調査結果もあります。
 そうした子どもたちの学力の現状をふまえて、外国語専門部会とは別の中教審の部会が、国語教育の充実を検討している。そういう議論や意見を総合的に判断して、中教審が、いまは英語どころではないという判断を下す可能性は大いにあります。

 私が反対する理由


―斎藤先生は、「小学校で英語を学ぶ必要はない」というご意見ですね。反対される理由を教えてください。

斎藤 私が反対しているのは、小学校で英語教育を導入したほうがいいという流れの裏には、いろいろな思惑とか間違った前提が渦巻いているからです。「小学校から習えば、英語力が伸びる」「英語は必ずしも伸びるとは限らないが、英語嫌いをつくらない」「異文化理解ができるようになる」などと、いろいろなことを言う人がいます。過熱した英語ブームに乗って産業として利用しようとする人もいる。子どものための教育という一番の目的がないがしろにされている。このまま導入されれば、教育現場だけではなく、子どもたちも混乱するのは目に見えているわけです。
 小学校での英語の必修化というのは、「日本人の英語がうまくならない。文部科学省は何か策を講じるべきだ」と、文科省が方々から責め立てられて、最後の切り札として踏み切った施策です。こうした安定していない状況下で実施したとしても、成果は上がりません。
 このまま実施すると、子どもたちの英語だけではなく言語感覚までもひどいことになってしまうでしょう。導入後、それが実際に明らかになってくるでしょうが、一度始まった政策は止まりません。「ゆとり教育」だって、これだけ失敗だと言われていても、文科省はまだ失敗を認めようとしない。何とか修正しつつ推進しようどしている。
 おそらく、小学校に英語教育が導入されてしまったら、「ゆとり教育」の弊害も一気に噴き出すと思います。それをなんとか帳尻を合わせて成果を上げようと、文科省は策を講じるでじよう。五。六年生だけの必修化では目に見える効果が出ないとなると、学年を引き下げたり、時問数を増やすなどしてみたり、別の科目の時問数を減らしたり……。とにかく他科目はさておき小学校英語の必修化という決まった政策を成功させるために議論を展開しようとするでしょう。
 つまり、英語教育という目先のことばかりにとらわれて、ほかの教育がないがしろになるというのが、一番懸念されるところです。なにより、一番犠牲になるのは子どもたちですから、それをなんとか食い止めたい。

―行政側のしていることは、子どもたちのためというより、政策重視というわけですね。

斎藤 それが許せない。子どもたちのことを考えたら、先に踏まえるべき段階があると思います。

―今回の議論は、あくまで公立小学校における議論であって、私立ですと、以前からかなり積極的に行っ。ているところもあるようです。私立において、目立った成果があるものでしょうか。

斎藤 日本における小学校英語教育というのは。明治時代から行われているのです。この事実を知らない方が多いのでしょうか。昔から試行錯誤を繰り返してきた小学校英語教育の効果が本当にあったのかどうか検証もせずに、ただ「日本人の英語力が低い、だから小学校から取り入れるべきだ」「他のアジア諸国も取り入れているのだから、日本人の英語力も伸びるだろう」と、非常に短絡的な発想で議論している。その教育効果が確認されていないのに、小学校から英語を学べばうまくなるという前提を立てるのは、まったく無責任な話だと思います。しかも、私立でかなり力を入れている学校でもいはっきりした効果は確認されていないのです。
 学習院の試行錯誤の仕方が非常にいい事例です。明治十五(一八八二)年から学習院の小学科・初等学科では英語を何度も導入したり廃止したりしています。明治二十三(一八九〇)年に一回英語教育が打ち切られるわけです。なぜ止めたのか、当時の文書がありますので、ご紹介しましよう。
 初等学科に外国語を置くも、畢竟時間を徒費するに過ぎずして其の効極めて少なきは数年来の経験に徴して明なりとす。然るに説を為すものあり。曰く、外国語は幼時より始むるを良とす、何となれば児童は不知不識外国語の口調等に慣るるを以て、労少く得る所大なりと。此の言非なり。(「学制取調理由書」)
こうした理由で、学習院では一旦廃止するわけです。もちろん、この後また導入しなおし、明治四十年には、毎週三時間英語を学習することにします。その五年後には「国語などの教課がその犠牡になっており、その割には得るところが少ない」という理山で、再び廃止になりました。つまり、「効果がない」ということは明らかに言われている一方で、「効果がある」とはどこにも書かれていない。「OO小学校を出たから、Aさんは英語ができるね」なんて話は聞いたことがないでしょう。
 だから、小学校で週一時間習っただけで英語がうまくなるだろうというのは、まったくナンセンスな議論。その週一時間の授業の影響がないなら問題はないのですが、きちんと日本語で行われる科目が減るから困るのです。

 阻止するなら、今だ


―しかし、これだけ英語教育への熱が高まっているなかで、行政側も教育現場も小学校英語の必修化はしない、という決断をするのは難しいのではないですか。

斎藤 かなり強硬な反対意見にあって論調が弱まっ。てきたところを見ると、私は必修化しない方向に変換するのではないか、と期待しています。
 何よりも重要なのは、必修化を止められるかどうかということより、行く先によくないことが起こると予測されるのであれば、それを阻止しようと最大限努力しなくてはならないということです。それが学問の良識であり、学者としての使命だ之思うからです。何か悪い事態が起こると、後から「自分は以前からこうなると思っていた」と言う人がいますが、「このままでは悪い結果を招く」と感じたら、その場で声を上げないといけません。その勇気を持つべきだと思います。
 興味深いことに、反対派の多くは、第一線で活躍されている著名な外国語の専門家たちです。ほかにもきっと、「潜在的な反対派」である専門家の方々もいると思います。しかし、なかなか声を上げようとしない。一方、推進派の方々は大勢のように思えますが、実はごく一部。その限られた人数の人たちが、大衆の意見に後押しされて勢いがよく見えるというのが、私の印象です。それに加えて、「すぐに話せるようになる英語を教えろ!」と言われるものだから、文科省もその圧力に屈してしまっているのでしょうね。
 必修化は、今しか阻止できない、という意見も聞かれます。それは、きっと中教審の最終的な決定が出て、学習指導要領に載せられてしまうと、なかなか軌道修正ができなくなるという意味でしょう。一度、学習指導要領に入れられてしまうと、文科省もなんとか帳尻を合わせようとしますから。九四年から学習指導要領に導入された英語の「オ上ブルーコミュニケーション中心主義」も、二〇〇三年になるまでなかなか修正しようとしませんでした。しかも。投入された費用が莫大な金額です。「オーラルーコミュニケーション」に重点を置い。た英語教育の例を挙げて説明しましょう。
 立教大学教授の鳥飼玖美子さんの著作『危うし!小学校英語』によると、二〇〇六年に始まった大学入試センター試験のリスニングーテスト用に配られた使い捨てのICプレーヤーにかけられた費用は、一六億円! 騒音対策のためとはいえ、大変な金額です。この例からもわかるように、小学校英語必修化のための予算もかなりの額に上るだろうことは予測できます。

―それだけの予算を投入してまで英語でのコミュニケーションに固執する理由が不透明です。教育関係者の議論もそうですが、英語教育に対する親たちの熱の入れ方にも、異常なものを感じます。学校への期待も過剰ですね。

斎藤 英語に対して理解がなさすぎる、と言えるかもしれません。語学というものを甘く見過ぎていると思います。親たちのこの過熱振りは、”ルサンチマン”という言葉で説明する人が多いのですが、「白分たちはうまく英語を話すことができなかった、これは中学校・高校と文法や読解ばかりやらされていたのが悪かったんだ」という恨みつらみがあって、それでは小学校からコーミュニケーション中心の教育方法に変えれば、うまくなるだろうという発想からでしょう。ありもしないものを、無理やり良い前提としてこじつけているとしか思えない。

  エリートを犠牲にしていいのか


―「オーラルーコミュニケーション中心主義」に基づいて英語教育が行われていた時代は結局、間違っていても通じればいい、という考えが強調されていったという話もあります。授業中、いい加減な発音が容認され、文法や読解がなおざりにされてしまった。その結果、学生たちの英語力に影響は出ているのでしょうか。

斎藤 大いに出ています。そのせいで、日本人の英語力は落ちていると言えるでしょう。学生たちを見ていても感じることがあります。単純な文法の間違いなどが以前の学生と比べてよく見られるようになりました。
 コミュニケーション中心主義というのは、とても安直な達成感は得られます。度胸で何とか相手と話ができるわけですから。でも、そのやI方をしてしまうと、ある一定のレベルまでいくと語学力が頭打ちになってしまう。なんの稽古事をそうですが、きちんとした基礎の土台の上でなければ、その先の知識や技が積み重ねられない。
 明治時代などは、一部のエリートたちがきちんとした英語を使うことができればよかった。ところが、教育の大衆化との関係で、今はみんなが英語を使いたがるようになりました。そうして、みんなに合わせた教育の仕方が求められるようになった。徹底的に努力はしたくないけれど、そこそこ話ができればいい、という大衆の願望を満足させるには、とにかく話して通じるという達成感を与えるしかない。そうして、現状のようになってしまった。しかし、こうしたやり方では、きちんとした英語の使い手は育ちません。

―担任の教師のサポート役であるアシスタントランゲージーティーチヤー(外務省が募集・選考し文部科学省の研修を受けた外国語指導助手のこと。以下、ALT)の数も。現在では全国の公立小学校二万三〇〇〇校に対して一二〇名ほどしかいないそうです。今後はさらに増やすそうですが、この数からしても導入する以前に解決すべき課題の多さが垣間見えてきます。

斎藤 数も問題ですが、ALTの質も問題です。優秀で熱心な先生もいるでしょうが、全国レベルで質を均一にすることができるのでしょうか。英語教育の訓練をきちんと受けていない先生が教える場合も考えられますので、教師の質が悪けれぱ、かえって毒になる。初めに間違った型を覚えてしまうと、矯正するのに苦労するからです。
 骨董品の鑑定士に讐えますと、骨荒品の鑑定士を育てるには、初めの数年問、木物しか見せない。そうすると、本物の質感がわかってくるので、偽物も見分けられるようになるのです。初めから偽物と本物を見比べさせたりすると、混乱してしまうらしい。道に迷うと何度も同じ道に行ってしまうことがありますよね? これと同じことで、間違った情報が意識化されてしまうと、常にそこで蹟くことになります。英語も同じで、間違った発音、間違った文法を覚えてしまうと、咄嵯に正確な答えが見つけられなくなる。
 子どもが楽しければいい、子どもが明るくなるからと、先生が子どもにゲームなんかをさせたりするのは、一時期は楽しいかもしれないけれども、長い目で見ると子どもの語学力の向上には役に立たないと思います。
 こうして批判していますと、「みんな一所懸命子どもに教えているのだから、現場を見ずに批判ぱか昨丿するな」と言われることがあります。しかし、これは見たことがあるとかないとかの話ではない。ネイティブースピーカーを含め、教師がきちんと養成され、高い質を保つ教育がなされているという前提すらあやしい以上、現場を見る見ないの議論以前の問題です。

 商業的利益が優先される


―数多くの英語教材が発売されています。なかには高額なものも見られます。小学校での必修化が決まったように宣伝している商品もありますね。

斎藤 これは悪循環で、教材を作る側は必修化を見込んでブいろいろな商品を新たに作―宣伝まで始めたのだから、絶対必修化してもらわないと困るのです。また、現在のように大学が危機的状況ですと、英語を大学経営改善の手段として使うところが多いのです。
 例えば、公立の小学校で英語が必修化されそうだとなると、大学が「小学校英語指導者養成科」などと銘打ってクラスを作ってしまう。一度学科が設立されてしまうと小学校で英語が必修化されないと困る。しそういう非常にゆがんだ形で必修化へ向けての動きが始まっているのです。
 それに英語に関して、各人の求めるレベルが違います。レベルの多様性を否定するつもりはありませんが、日本人全員が国際人になるべきだ、と言って小学校英語を始めたって、できるはずがありません。国民のバイリンガル教育で成功した国もないのです。
 結局、”つちのこ”と同じ。絶対見つかる、という期待を何かにかけてしまう。日本における英語教育の長い歴史のなかで、何が成功して何がしていないかなどということはわかっています。。しかし、多くの人はそれを勉強していないので、知らないのです。
 統計や疑似科学的なデータを分析して、「○○のような教授法がいい」などと言う人もいます。そういう人たちに私は、「そんなもの、。昔から日本にありました」と言いたい。‐明治時代と今とは事情が違っていますから一律に同じとは言えませんが、日本人にどの程度の英語を教えれば、どのくらいは話せるようになるのかなどについては、今より信憑性のあるデータがいくらもあるわけです。それを調べずに危うい政策を推し進めたら、いったいどうなるか……。
 よく日本人は英語ができないと言われますが、きちんとした英語を使うべき立場の人たちの英語は、世界のトップレベルと比較しても、そんなに遜色のあるものではありません。それに、日本人は英語ができないと言っても、どのレベルの日本人なのかが、まず疑問。しかも、何処と比べているのか。
 イギリスの植民地であった国の人々などは当然のごとくうまいでしょう。でも、それは英語を強制されて自国の文化や言語を失ってしまったということでもあります。カリブ海に浮かふ小国、トリニダードートバゴなどは、十九世紀にイギリスの植民地となり、一九六二年まで支配されて。いました。トリニダードートバゴ出身のノーベル賞作家、v・s・ナイポールが「イギリスの英語なんて腐っている」と書いていましたが、かつての宗主国に対ずる不満を表現しようとしても、英語でしかできない。
 植民地化されたアフリカのエリートたちも、そう。もはや英語など自国の言葉ではない言語で考えるようになってしまった。そうした挙げ句、彼らは、どうしたか――。
 「われわれが使っている英語は、イギリス人やアメリカ人の言語ではなくて、私たちのものだ!」などと言い始めたのです。こうして「世界には多様な英語がある」という意味で "World Englishes"「世界英語」などという表現まで出始めましたが、これは、旧植民地の人たちの恨みつらみがこもった概念なのです。
 こうした歴史的背景を知らない日本の人たちが、今は英語が多様化しているのだから、「日本英語」があってもいいんじゃないか、と言う。。″日本英語”なんていうものは存在しません。それはただ、ブロークンの英語でいいから勇気を持って話しましょうと言っているに等しい。まるで議論のレベルが違うのです。

 比較対象を正確に把握せよ


―アジアの他の国々との比較はいかがでしょうか。中国や韓国は、かなり積極的に取り組んでいるようです。

斎藤 以前は、他のアジア諸国と比較して、日本人は読解と文法はかなりレベルが高かった。ところが、現在は追い越されてしまいました。鳥飼玖美子さんによると、TOEFLの全受験生の平均点数を下げているのは、日本の大学生と高校生だそうです。
 中国、韓国の学生たちときちんと比較するのも難しいですが、早期から始めたかどうかではなく、もし低いとすれば、日本人のほうが勉強熱心ではないからでしょう。中国や韓国の学生たちの熱心さには驚かされます。
 それに、かなり極端な例だからニュースになるのでしょうが、韓国では英語の発音をよくするために、子どもに舌の手術まで受けさせるという話もありました。ロ本の過熱振昨丿など、まだ冷静なほうなのでしょう。
 北欧の人たちと比較する人もいます。これも議論になりません。日本語に比べれば、北欧の言葉は言語的にはるかに英語に近いから、うまいはずです。どの国のなにと比べているのかが重要になってきます。政策が始まるときには、きちんとした議論はなかなかできないものですけれども、英語がうまいとされる諸外国の歴史的背景や実情をきちんと把握しつつ繊細な議論を展開する必要があると思います。

―日本人が英語を話す国民になるというのは、理想に過ぎないのではないでしょうか。

斎藤 それは歴史的に見ても難しいのです。一番重要なことは、国益に適う英語を使える日本人が完璧な英語を話せるようにすることです。そうせずに、能力のある子どもたちまでもが、ブロークンーイングリッシュを当然のように教わり、ただ意昧もないことを話しているような状態では、「一億総崩れ」になるでしょう。
 これまでの「読み・書き」中心の英語教育は、役に立たないと言われてきたけれども、学校教育ってそんなものです。学校で習ったことをそのまま社会に出てすぐに生かせるなどということは、ほどんどないいと思います。堅固な基礎力を与えて、「あとはご自由にできますよ。うまくなるかならないかは、あなたの努力次第」ということ。そのなかで意欲のある人たちが、きちんとした英語を身に付けていく――そういう構図が、私は一番健全だと思います。
(「中央公論」2006年10月号 219ページ~227ページ)

2 件のコメント:

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